故全泰壱(チョン・テイル)は大邱の貧しい家庭の長男として生まれた青年。17歳でソウル平和市場の縫製工場に就職。そこで働いている女性労働者の多くは劣悪な労働環境と
-低賃金で働かされていた。そのあげくに肺炎を患ったことを理由に解雇された幼い女性工員をかばったことで、彼自身まで解雇された。これをきっかけに独学で労働法を勉強し、
-当事の軍事独裁政権下で孤独で勇気ある労働運動を開始する。
裁断士として仕事をする傍ら、同僚と共に勉強会を重ね、
工場における労働実態や労働環境についても調査。さらにそれに基づいて労働庁に陳情したり、雇用者に協議を重ねるなど、平和的な運動をすすめたが、独裁政権や雇用者は耳を
-かさず、全く改善の兆しは見られなかった。
そこで1970年11月、このような状況に抗議するための集会を計画し、実行に移そうとした矢先、今度は警察・機動隊によって強制解散させられそうになった。全泰壱はつい
-にその場で全身にガソリンをかぶって抗議自殺を図る。「労働者だって人間だ」「労働法を守れ」「僕の死を無駄にするな」と叫びながら火だるまで数十メートルを歩いた。すぐ
-に病院に搬送されたが、 その日の夜にわずか22歳の若さで息を引き取った。
全泰壱の焼身自殺をきっかけに、労働者の悲惨な実態が世界に報道されるようになったことで、それまで「奇跡の経済成長」がもてはやされていた朴正熙独裁政権の暗部が明らか
-となり、激しい弾圧で停滞を余儀なくされていた労働運動が活発となった。また、学生や知識人の目を労働問題に向けさせ、1970年代~80年代の民主化運動における労働者
と学生及び知識人の連帯を生み出し、これらが韓国民主化実現の原動力となった。
独裁政権時代には全泰壱の伝記なども禁書扱いだったが、民主化実現後の2005年、焼身自殺から35年目、清渓川復元事業に伴い清渓6~7街を「全泰壱通り」と命名し、彼
-の彫像と銅板が敷かれた橋が建設された。そして、同年9月30日、息子の死後に遺志をついで労働運動にとびこんだ母親の李小仙も参加して、彫像の除幕式が行われた。
全泰壱の死を賭けた思いは、ついにここに実を結んだのである。