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国鉄闘争全国運動のホームページ
http://www.doro-chiba.org/z-undou/z-index.htm

NEW

1047名解雇撤回!鉄建公団訴訟勝利!
8・3東京地裁抗議・街宣行動に全力結集しよう!

 東京地裁抗議街宣行動
 日  時  2011年8月3日(水)14時集合
 場  所  東京地裁正門前

 動労千葉鉄建公団訴訟第26回公判
 日  時  2011年8月3日(水)16時から
 場  所  東京地裁・527号法廷

     
8.6ヒロシマ大行動ブログ
      
 2日、則子さんの検査結果が出て、
進行性ガンであることが分かりました。検査・入院・手術の予定が決まっています。
 「街」は、この結果を、2011年後半は、大恐慌と3・11情勢がさらに進行し、かつて世界史が経験したことのない破局と動乱が爆発していく。そのただ中でこそ、まさにプロレタリア世界革命の現実性が躍動し、その勝利への準備がなされていく」という情勢の中でガッチリ受け止めます。
8/4(木)夕方から  「8・6ヒロシマ壮行会&頑張れ則子壮行会」
8/11(木)夕方から
8/13から変更に
なりました
 「頑張れ則子壮行会」
8/18(木)夕方から  「頑張れ則子壮行会&団結バーベキュー」
を計   画していますので、則子さんに会いたい人・お時間のある方は是非ご参加ください!

8月2日(火)
 今日、則子さんの検査結果が出て、
進行性ガンであることが分かりました。検査・入院・手術の予定が決まっています。
 「街」は、この結果を、2011年後半は、大恐慌と3・11情勢がさらに進行し、かつて世界史が経験したことのない破局と動乱が爆発していく。そのただ中でこそ、まさにプロレタリア世界革命の現実性が躍動し、その勝利への準備がなされていく」という情勢の中でガッチリ受け止めます。

 入院~手術まで、8/4夕方から「8・6ヒロシマ壮行会&頑張れ則子壮行会」をやります。その後は8/13夕方から「頑張れ則子壮行会」を計画していますので、則子さんに会いたい人・お時間のある方は是非ご参加ください!
なあに、「街」は歴史的にタフですから!

2000年1/20 明日、則子さん手術

 脳腫瘍と子宮筋腫の手術のために入院している「街」の所長・則子さんの最初の手術が、明日の朝、行われます。先ほど「チャンプルー」に戻ってきましたが、今日は岩元さん(元ホットスペース練馬・所長)と、こどく館の元木さんが面会に来ていました。感謝・感謝。

 明日は、ハネやん、息子のユッ君、安西さん(陽和病院患者会)の3人が付き添うことになっています。順調にいけばお昼には病室に戻ってきます。全国の皆さん、手術の成功を祈ってくださーい。

祈るような気持ちでいます/新松橋亭同人・モロ

いよいよ明日則子さんの手術ですね。このあいだお見舞いに行った時はとても元気そうでしたが、いよいよとなると街のみなさんの心配もさぞかしとお察しします。そして私も祈るような気持ちでいます。則子さんの元気な姿をきっとまた見る事ができますように。

1/21 手術の報告

 本日の午前中に則子さんの脳腫瘍の手術が公立昭和病院で行われました。午前8時40分に部屋を出て、午後0時40分に戻ってきました。

 主治医の話では、「手術は成功!」ということです。

 これで第一の大きな山を乗り越えることが出来ました。激励していただいた全国の皆さんに感謝いたします。

 夜の面会には、「街」の直子さん、チューやん、こどく館の元木さんが向かいました。「チャンプルー」では、午後に行われた「全都患者会」に参加した、ほっとスペースの多田さんが残ってお祝いをしています。

 とりあえず、手術の報告まで。


2/22

 「生きることの意味」ハネやん 週刊「街ニュース」376号(2000.2.22発行) 

 連れ合いが入院してから一ケ月以上がたった。その間に患者さん、家族のさまざまなドラマを見てきた。病との必死な闘い、退院、死、そして誕生。僕はずっと「生きることの意味」を考えてきた。

 人間の生命には限りがある。その限られた時間を人は生きて、死んでいく。元気で退院したとしても、いつか命の終わりがやってくる。そこには、早いか・遅いかの差しかない。

 死はいつでも理不尽であり、納得できる死などない。病院通いで考えさせられたことは、「どのような死を迎える」かではなく、「これまでどう生きてきたか、これからどう生きていくか」ということだった。納得できない「死」にとらわれるより、そう納得できる「人生」を生きることだ。

 先週、連れ合いと同室のMさんと知り合った。彼女は今、癌・糖尿病と闘っている。それにもかかわらず、彼女はとても明るい。連れ合いのベッドの横で1時間以上も「生きることの意味」について語りあった。僕はとても心が救われた気がした。僕の連れ合いもそう感じたはずだ。

 昨日は、陽子ちゃん・アリちゃんも面会に来た。あまりの楽しさに、大いに笑いながら、予定の面会時間を過ぎて話し込んでしまった。話の中で彼女がお礼を言いたいと言った。なんでも前回僕たちと話した翌日、糖尿病の検査値がドーンと下がっていたと言う。「僕の高血圧値だって、怒った時には上昇する。人間は感情を持った生き物だから、楽しい経験をしたあとは検査値が下がることって、あるかもしれないな」と思った。

 Mさんは明日退院する。彼女は「チャンプルー」の近くの駅に住んでいる。退院したら「チャンプルー」に遊びに行くと言ってた。Mさん、また「チャンプルー」で楽しい時間を過ごそうね。
        
 1月半ばから入院している則子さん。則子さんは関町にいるときと同じ様に、いやそれ以上に、人との関係を築いています。そして、毎回、いろんな人を紹介してくれます。


ようこ 21日の午後からアリちゃんと私(ようこ)で彼女に会いに病院に行きました。そこで、やはり病と闘いながら自分を生きているMさんを則子さんが紹介してくれました。則子さん、ハネヤン、ありちゃん、私の4人は輝いて生きている彼女を囲んで話をしました。彼女に会って感じたこと、私たちにとってとても大切なことだと思いました。

 Mさんは小柄なのにすっごくエネルギッシュ!!!! 彼女の全てで”私、私として生きてるわ!”といっているように感じました。とにかく、個性的で、よく話をします、笑います!

 病になってからの家族や人との関係で自分が感じる事など、いろんなことを話してくれました。彼女の強烈で明るいキャラクターに私達「街」一行4人も、圧倒され、うなったり、笑ったりしました。へらへらした笑いではなく、心から笑えました。

 そこには一人の人間としてしっかり足を地に付けて生きている彼女がいて、私には彼女が素敵に思えてなりませんでした。
 彼女が言っていました「ワーッとさわいで楽しくっても、一人になったときにつかれる楽しさはよくないわ。本当に楽しいときは一人になってもふわーっとした気持ちが続くのよ。そんな時間が体にもいいのよー!」

 それはどんな人間にも共通することだと思いました。わたしも「街」にきて人間くさい人達にであって、人の心を満たすものはお金や、物ではなく、人なんだということを知りました。

 何度か病院を訪ねました。そうする中で感じた事は、入院している人を一方的に励ますために見舞いに行くのではなく、そこでお互いに影響しあっていろんなことを感じたり考えたりするんだな、ということです。

 毎回、則子さんに会うと「もっと、がんばるぞー!」って思えます。
 病になった人は決してかわいそうな人ではありません。病を得て、人間として感じる事、考える事、生き方が大きく変わります。そして、彼女たちからたくさんの事を感じさせてもらい、教えられ、気付かされます。人間ってすごいなぁと改めて思います。
 私も、彼女たちに負けないように、生きていきます! Mさん、これからもよろしくおねがいしまーす!


あり Mさん、とにかく人間味あふれる人で、一緒にいて愉しくてしょうがなかった。病院で病気と闘いながらも、そこでの新しい出会いを自分の人生にとって大きなことだと感じられる。僕も日々の新しい出逢いを、もっと大切にして生きていきたいと思った。
退院したら、Mさんに「街」へいっぱい来て欲しいです。 


3/7
 悪性腫瘍との戦闘宣言/則子
 週刊「街ニュース」第386号(2000年3月5日発行)

 1月12日、昭和病院に入院して以来、1月21日の左脳の脳腫瘍手術、31日の子宮筋腫手術、そして2月24日、関東逓信病院でのガンマーナイフによる右脳の放射線治療という3度の手術を乗り越えて、3月4日退院してきました。

 しかし手術後の病理検査の結果、私の病が「平滑筋肉腫」と判明しました。これは悪性の子宮筋腫で、医者の話では「余命、最大2年」ということでした。そして2月18日から「化学療法」(抗がん剤の投与)を受けています。今後、4度の入退院を繰り返しながら、転移・再発の防止のための治療を続けて行くことになります。再入院の際には化学療法による白血球の減少と感染症を防ぐために、勝手ながら面会を控えさせてもらうかもしれませんが、ご了承して下さい。

  「余命2年」、しかし私は「不幸」な存在なのでしょうか? 

 おととしの11月に、ハネやんの叔母さんがガンで亡くなりました。彼女は社交ダンスに生涯を賭けてきた人で「私は踊りながら死にたい」と常々言っており、6年前、ガンの告知を受け、そのことを誰にも知らせず死の直前まで踊り続け、入院後もお弟子さんにベッドの中からダンスを教えていました。72歳の人生を彼女はダンスとともに生き、そして死んでいきました。彼女の生き方を見て、私もそう生きたい!と思いました。

 人間の命には限りがあります。私が思ってきた事は、「1日でも悔いのないよう生きたい」と言う事です。私が「街」をやってなかったら今みたいな生き方はできませんでした。「街」での、メンバー、ボランティアさん、地域の人との出会いが私の生き方を大きく変えてくれました。また、私が病になることで、「街」の一人ひとりが生まれ変わって、私がいない分を担ってくれています。そのことに感謝しています。だから私は安心して闘病生活に入ることができました。

 私は今、とても幸せです!「街」で生きているからです。私の生きる場所は病院ではなく、地域の中・「街」なのだということを実感してます。これからもよろしくお願いします!

                      2000年3月5日    赤羽 則子

3/14
 則子さんの近況

 4日に退院してから10日あまりがたちました。脱毛傾向にありますが、体調は最大のストレス原因であった子宮筋腫・出血がなくなったので、いたって順調そのものです。

 『チャンプルー』で昼食をとってからリサイクルショップ『街』にいき、2時間ほど過ごして一端帰宅。体を休めてから、また6時頃に『チャンプルー』で夕食をとって、ライブを楽しんだり・みんなと話を2、3時間して地域での生活を満喫して「ハウス街」に戻るという日々を送っています。では本人からのコメントを・・・

 則子「悪性腫瘍との戦闘宣言」以来の登場になりますね。

>則子さん、凄いなぁーーー >凄いよなぁーーーーー凄い >則子さん、凄いわ。

えばっち、ご心配かけています。でも私は、えばっちに「凄い」といわれるほどの事をしているという実感はありません。私は今までと同じ生き方をしているだけであって、「病」によって自分の生き方が変わるはすはないと思います。逆に、病を得る事によって私の生き方を確信しつつあるというのが最近の心境です。

 また23日から1週間程度の入院になります。多分6月3日のイベントで再会できると思いますので、楽しみにしています。

ハネやんも体調が悪いけど・・・
特  集 
2003年1月 手術をするハネやん、頑張れ!
ハネやんから学んだこと
ハネやん、頑張れ!
「大腸ガン手術」のスケジュールが決まりました。

2003年
1/6 ハネやん・55才誕生日パーティー、
1/7 入院
1/14(火)手術ということになりました。

僕のいない間、「街」のみなさん、頑張って下さい! 
そして無事と成功を祈っていて下さい!

 本日より連載 
ハネやんから学んだこと
 来月、手術をひかえているハネやんに「街」のみんなから元気の出るエールをおくります!
  羽やんと出会って/次郎
   僕が羽やんと初めてであったのは、今から6年前「街」の2階でした。
   あった時はとても緊張しました。それと同時に期待感も感じました。
   それで「街」で一緒に働くことになりました。
   当時いたメンバーに羽やんは平等に優しく接していました。
   みんなの食事を作って、「街」の仕事もしていました。

   その中で色々なもめごとなどもありました。羽やんはそういったことを一番で
   話の中に入っていったと思います。そういう人間的な羽やんにひかれました。
   「街」が無かったら僕は今頃入院していたかもしれません。
   
   羽やん!ありがとうございました!

   これから僕もなにがあるかわかりません。羽やん、「街」の皆さんと話をして、もちろん
   僕も色々な人から話を聞いて、人間らしく、僕らしく生きていきたいと思います。

「街」、名護市長選に総決起 (^o^)丿
「街」のミーティングで、ハネやん&則子さんが1月24日、富田さん・チューやん・洋平君が27日前後に、
沖縄・名護へ出発することが決まりました。 
連載 その2
ハネやんから学んだこと
 人が変わろうとする時/   チューヤン
人がそれまでの生き方を捨てて、新しくやりなおそう、と決心する、その瞬間にたちあった。 
「街」のメンバーのⅠさんはそれまで自殺願望が強く、対人恐怖症。つらいことがあると、すぐ自宅ににげかえっていた。

 その日、Ⅰさんは、もう「街」をやめて自宅に帰り、デイケアでテニスでもして一生暮らす、といいだしていた。「街」では、まず、親御さんと話し合った。逃げ帰ってこようとする我が子を突き放すことこそが、親としてとるべき態度であることをなっとくしてもらう。覚悟を決めてもらうことが必要だった。

 だれも我が子が不幸になってほしい、と思う人などいない。だがやさしく受け入れることは決して子どものためにはならない。(自己満足にはなるが...)逃げ癖が助長されるだけだ、とつたえた。
 そして、その後Ⅰさんとお母さんに「街」のミーティングに参加してもらった。

「もう、あなたの戻ってくる場所は、家にはないのよ。」と、言い渡すおかあさん。「お父さんがもうすぐ定年退職するので、2人だけで暮らす小さな家にうつるつもり。」

子どもを突き放す決意をしたその声は少し震え、お母さんの体からは一大決心をした、オーラのような、波動のようなものがビリビリと発せられていた。そばにいた私にも、その緊張がひしと伝わってきた。
 もう我が家に逃げ場は用意されていないのだ、と悟ったⅠさん。退路をたたれ、ショックを受けたようだったが、そのご、グループホームで共同生活をしながら「街」へ通う生き方をえらんだ。

 「にげる」ことをしなかった。それからⅠさんは、自分の人生を自分で握りしめることを少しずつみにつけていった。逃げるか、逃げないでふんばるか。決定的な岐路だった。
                  ハネやん語録は、次回にのせます。 
ハネやんの新パーカッション、ここでも子供に大人気です。子供が「小泉たたき」をする デモに出発 (^o^)丿

連載 その3 
ジュゴンの家より
ハネやんから学んだこと 晋くん
 ハネやんは面白いおじちゃんです。僕たちに色んなことを教えてくれます。そして「ダメな事はダメ!!」と、差別や理不尽な事に対しては、体をはって向き合います。

 「ここは人生の大学だよ」とハネやんから聞いて、2年前に沖縄に来ました。本当に人生の大学でした。色々な人の生き方を見せてもらいました。自分らしく、人らしく生きる事の大切さを、人の背中を見て学んで来ました。

 僕にとっての「自分らしさ」は、人らしく生きること。人らしく生きることは、名護に基地を作らせず、まよなかしんやさんが言うように、人権・環境・平和を自らが作っていくこと。僕は、今は演習地となっている辺野古の海を解放し、取り戻したい。辺野古の海で釣りをして、三線を弾いて生きていきたいなぁと思います。

 志を持って、誇りを持って生きていくことを、ハネやんから教えてもらいました。
    ありがとう、ハネやん!! 

 まだまだ僕は、自分らしさ、人らしさを見つけている最中だけど、だからこそ闘う!! 韓国の中学生の涙に、辺野古のおばあ・おじいの生き方に答えていくために、そして、「街」精神を受け継ぐために。

 ハネやん、ハネやんの言っていた「面白い時代」がやってきたね! 
一緒にこの世の中をひっくり返してやろう! 
まだ夜明け前だ、朝日がのぼる所まで、一緒に行こう!
6.23 「有事三法案 絶対反対」と書いたうちわをかざしながら小泉首相に抗議!
沖縄全戦没者追悼式で、小泉純一郎首相にうちわをかざし抗議する北中城村議の宮城盛光さん
沖縄全戦没者追悼式で、
小泉首相にうちわをかざし抗議する
北中城村議の宮城盛光さん
宮城盛光さん、やったぁーっ!
★この日、「ジュゴンの家」の人たちも、「小泉帰れ!」の抗議をしました。宮城盛光さん、万歳! 今度の村議選の応援に行きますので、 また一緒に飲んで・唄って・踊りましょう (^o^)丿 宮城盛光さんの抗議写真と新聞記事をプリントして店の前に飾ってます。

連載 その4
ジュゴンの家より
ハネやんから学んだこと   うららちゃん
ひきこもりをしていた私が東京の「街」に6年前一度行った時以来、ずっとハネやんは私の知らない所で、私の母の相談を受け、私に関わり続けていました。

 そして、1人でいる事に煮詰まり、精神病院に入院して退院して、現実の自分が辛くて「もう生きていられない」と(今思うと甘えるなという話ですが)思っていた私に、生まれ変わるチャンスをくれました。自分以外の人達のことを思えるようになれた。現実の世界を手に入れることができました。

 時々はキツくなる事もありますが、今まで出会った人達のこと、今現実に苦しんでいる人達のことを思えば、闘志と勇気が湧いてきて、また頑張ろうと思えます。私はやっと手に入れた現実にしがみつきます。人との関わりをあきらめないことを、ずっと関わってくれたハネやんから学びました。

 これからも成長する。
 頑張ります。 

「街」の旅行。全然、元気なハネやん。
この後12時近くまで飲んでました。
11/7(木)

7・28 有事法制反対 渋谷街頭宣伝
 リハーサルで一曲。「街宣車の上って、揺れるのね」 「う~ん? サクちゃんのボーカル、聴き取れないな?」

連載 その ハネやンから 学んだこと  チュ‐やン
 「街」を知って、ハネやン、則子さんの生き方を知って、私は人生を大転換する事にきめました。それまで障害児を育てながら、いわれもない差別を受けたり、気持ちの悪い同情をされたり、また、勝手に「共感」の名のもとにすり寄って来る人もいた。悔しい思い、怒り、そんなものは充分あったつもり。でもそれを個人的なくやしさから、もっと大きく視野を広げ、社会全体に目を向けることこそ大切なのだ、と、ハネやンは教えてくれた。この事がストン、と腑に落ちた時、ただの主婦だった私でしたが、今の社会に、あらゆる差別に、黙っていることができなくなりました。

 そして、今年の3月、大阪で全国連の大会に参加して、自分の中に、なんと怒りが足りなかった事か!!、おもい知りました。理屈なんかではなく、理不尽な差別に対しての心からの怒り。はねやんが「怒り」が足りない、とよくいっていた意味がこの時やっと分かった気がしました。・・・こ、れ、だ、と思いました。これを握り締めていこうと自分に“決め”がこの時できたのです。

 そのうえで、闘いを楽しむこと。心から楽しむ事。その先に希望があることを指し示してくれるハネやんのおかげで「街」はいつも元気です。「怒り」ながらも、でも、楽しく闘っていきたい!! 関町の地域の人達、1人でも多くの人達との日常の生活を大切に、地に足をつけて一つ一つ積み上げて行こうとおもっています

<私の記憶にある、ハネやん語録>
                 
 ・あきらめない事
 ・「希望」が見えると、元気に続けられる
 ・本気で”勝ちたい”のなら一生懸命考えよう。とことん考えよう!
 ・楽しく闘おう!
 ・怒り、こそが、闘いのエネルギーだ
 ・自分の持ち場で全力をつくせ


 ・熟考して話そう
 ・話す時は核心を突きながらもユーモアをちりばめる
 ・初めて来た人にはまず、また来たくなるように話そう
  ワクワクして帰ってもらう
 ・自分たちが心から楽しんでいる事を知ってもらおう
 ・下品な話し(身内話)はしない
 ・いつも自分のありかたを疑え!おごり高ぶるな。

 ・自分の足にあった靴をはこう
 ・「高い志」、「素直な心」、「意地」がある人は変われる 

 ・人をうごかすのは理屈ではなく、情だ!!
 ・わかったと言う事は、行動することだ
 ・日常を大切にしよう
 ・今できることをしよう。考えても無駄な事は考えるのを棚上げしておこう。
 
 ・「食」は文化だ。 「食」を大切にしよう
 ・ケチケチするな。お腹いっぱい食べてもらおう
 ・他人の「命」を食べている事を思え

8・11 砂川


連載 その6
ハネやんから学んだこと   直子
 私は付き合いの長いこともあり、沢山のことを羽やんから教えてもらった。

 でもそれは本当に”学べたこと”なのだろうか?と自分を問い返している。
 そう、羽やんがいつも言うように『学んだということの唯一の証は変わる事』なのだから・・
  
 人は本当に変わることなんて出来るんだろうか?
 それは学生時代からの私の心の中でのひとつのテーマだった。
 「働きかけによって、人は必ず発展的に変わるものなんだ」学生時代によく聞いたスローガンだ。でも私は、ずーっと半信半疑でここまできていた。
  
 ”街”で出会った若者たちは それを打ち消すように私の目の前で何人も変わっていった、しかも、めざましく。あの何も話さない目でしかものをいわない女の子は”頼りになるウグイス嬢”をやってのける人となった。気に食わない人を見れば殴りかかってしまう青年は今さわやかな職人となって私たちの前に登場する。ピーコートをきたパソコンマニアな男の子はジュゴンの家になくてはならない沖縄の人となった。そのたびに私は、感動した。そして いまも感動し続けている。彼らはなぜ 変わることが出来たのだろう。

 それは羽やんが体当たりで教え続けてきたことを”学んだから”なのだ。
 人が類として生きること。わかちあいということ。を毎日の食べることを通じて羽やんは教えてくれた。いつも工夫された、こころのこもった料理を毎日毎日作ってくれた。
 今、巷では食べさえすればいいなら何だってある。マクドナルドでハンバーガーを食べればおなかは一杯になる。松屋で牛丼を食べれば290円ですむ。羽やんの作ってくれる料理はそれでは”魂を売り渡しているようだ”ということを語らずとも 教えてくれた。

 食べるもののひとつひとつに命を育ててくれた人の思いがある。そして同じ釜の飯を食べる仲間がいる。集会にでかけるときも いつもおいしいおにぎりを食べて元気をもらう。他の人たちにも分けると「おいしんだよなー街のおにぎりは」といってたのしみにしてくれる人がいる。分かち合うことの楽しさ、人と関係を結ぶことの大切さ、面白さ、いつも羽やんが食べることを 通じて示唆してくれた。
 そのことをわかった人はみんな変わった。
   
 私が学生時代から考えていたことは少し違っていたということがわかった。人は働きかけによって変わるのではなく 働きかける主体自身が学んでまず変わるんだ!
 
 今年一年間の 沢山の闘いの中で このことがよーくわかった。
 全日空搭乗拒否で 全日空に行ったとき どれだけの人があの大きな航空会社が社内規定を変えようと  思っただろう。私たちは 抗議に行った、そして全日空は差別規定を変える。
  『やれば 必ず勝てる! 大儀は私たちにある限り』そして 『決してあきらめないこと』
  羽やんが 命をかけて 教えてくれたこの言葉を忘れないで これからもやるぞーー!!
 
 ♪ 私にできることはひとつ~闘うことだけなのだ~♪ 
    とみた なおこ

  おまけの羽やん語録
  『いつもいつも誰かがかじを取ってくれる船に乗れるわけではないんだよ』
  『負けるけんかはするな、そのけんかに人生をかけていれば負けるわけがないんだ。
   そしてけんかをすることは支援者をつくることでもある』
  『人は100%死ぬ。だから 死に向かってどう生きるかなんだ』
  『”何が出来ない”から出発しないで”何ができるか”から出発するんだ』
  『人は言葉で説得するか、態度で説得するかのどちらかだ。何か持っているけれど
   表現できないなら まずその自分を壊さないと表現できない』
  『たとえば、川田龍平さんの話をきいて心が震えたら、こころは変われる』
  『つねに”街、ジュゴンの家のための闘い”と”街、ジュゴンの家としての闘い”の両面がある』
  『相手に添って話をしていくこと。楽しく闘いが出来るということを感じさせられるかどうか』
  『一日一日やれないということは365日やれないということだ』
  『何故うららちゃんは変われたのかーそれは逃げなかったからだ』
  『自分たちの仕事は”魂”の世話なんだということがどれだけわかっているか』
  『大事なことは人ときちんと向き合うということ』
  『日々 自分の意見を言っていくことをしなければ 肝心なときに話ができない』
  『どういう顔をして どういう言い方をしたら相手に伝わるのか考えること』  

イラク侵略戦争阻止! 有事法制粉砕! 12・8 全国総決起闘争
集会の最初にヨッシーとジュゴンの家15名でライブ。2日前に「医療観察法案」が強行採決された事に怒りをこめて「心病んでも」と「イラクの子どもたちは今」を熱唱。

連載 その7
ハネやんから学んだことヨッシー 
 ハネやんは、僕達にとって育ての親であり先生だ。振り返ってみるとハネやんは常に僕にチャンスを与え続けてくれた。それに僕はずっと応えられなかったし裏切りもした。

 音楽に関して言うと、今僕が歌っている歌ははねやんが居なかったら生まれなかった。沖縄料理店チャンプルー街で歌わせてくれた。まよなかしんやさんをはじめとする本物のシンガーと出会う事が出来た。そして僕に世界を教えてくれた。今ハネやんはガンになりながら食事を作り、みんなのことを考え、人が人らしく生きられる世の中を作る為に、今まで以上の闘志を燃え上がらせている。今こそ応えよう! ハネやんの子ども達立ちあがれ!!

 僕は9年前にバチルスという4人組のバンドで沖縄から練馬にきた。一緒にきた徳ちゃんが街の人たちと付き合うようになり、僕達を紹介してくれた。羽やんは僕達の曲を良いと言ってくれた。僕はびっくりした。40を越えたおじさんが僕達の曲を気に入ってくれるなんて変わった人だなあと思った。

 それから日曜日の夕食会に参加するようになった。いままで見たことのない個性的な人達が言いたいことを言い合ってわいわいやっていた。初めて見た世界だった。

 羽やんと則子さんはいつも人のことに一生懸命で、僕は「この人達,人間か?神様なんじゃないか」と本気で思っていた。当時僕は自分のからに閉じこもっていて1年のうち360日くらいは心が重苦しい生きづらさをかかた若者だった。その頃羽やんの言葉で心に残っているのは「幸せに敏感になれ!」と「人は変わる」だった。当時の僕は理解できなかったし、「人は変わる」なんてとても信じられなかった。けれどそのことがずっと心に引っかかっていた。今は信じられる。なぜなら 「街」や「ジュゴンの家」の人達が変わるのを見たからだ。しかも短期間で劇的に変わる人もいる。変わるということは、人間になると言うことだ。

 人は誰でも人間になりたいと願っていると思う。だけど羽やんが言う所の「いまある不幸にしがみついていたい」というのもあるし、変わるのが怖い、また変われるなんて信じられないという思いがあると思う.僕がそうだった。そんな時ハネやんは「人は変わる!」と断言した。そんなことを言う人に会った事が無かったし、今も「人は変わる」と言いきる人にあったことがない。僕にとっては「太陽が地球の周りを回っている」と信じていたのに「地球が太陽の周りを回っているんだ」といわれたのと同じようなことだった。

 1997年バンドをやめた。その年の10月10日、「街」で知り合った人と結婚した。「街」の人たちは盛大なパーティーを開いてくれた。羽やんは結婚に反対したが、則子さんと仲人をやってくれた。しかし2年で離婚した。僕が人とちゃんと向き合えない人間だったからだ。「街」やチャンプルーにもいかなくなった。今考えてもぞっとする日々だった。偶然チャンプルーのお客さんの金本さんに会って,「おいでよ」いわれ2年ぶりにチャンプルーに行った。本当はすごくハネやんと則子さんに会いたかった。チャンプルーには新しい若者が沢山いて、セブンスローズという素晴らしいバンドが演奏していて,活気にあふれていた。それから、僕は少しづつ人の輪に入っていけるようになった。

 則子さんが平滑筋肉種という病気になった。余命2年。いつも元気な則子さんが手術や抗がん剤でだんだん弱っていく。「死なないでくれ。」祈り続けた。今則子さんは元気だ。毎日一緒に働いている。本当にありがたい事だ。このありがたさを忘れてはいけないと今書いていて改めて思う。あの時のことを思えば何事に対しても怖れてはいけない。怖れるにたらずだ。

 僕は「街」で働かせてもらう事に決めた。「街」で働くようになって、お客さんや「街」の人たちとの生活、そして全国の戦争や差別と闘う人達との出会いによって僕は人を信じる事ができるようになった。しかし羽やんをみると僕は全然努力が足りない。羽やんは努力の人だ。今改めて今の自分を越えて日々闘うことを誓う。だから羽やん死ぬなよ。絶対病に勝ってくれよ!


連載 その8
ハネやんから学んだこと   ヨッシーマリ 
 傲慢で逃げてばかりいる私に、ハネやんは何度も「あなたは分かっていないね。あなたにとって一番大切なものは何なの? 大切だと思うなら、今の自分の考えを全て捨てなさい。きちんと自分と向き合いなさい。自分の人生を握りしめなさい。」と言い続けてくれました。その言葉をやっと理解できたのはハネやんが入院し、1人で料理を作るときでした。

 あせってしまい、失敗の連続、皆を喜ばす事もできず、私は何をやってもダメなんだ、と決めつけ、次へと進めず自分をどう保っていいのか分からず迷っているところに、入院しているはずのハネやんが「おはよ~。今日は寒いからうどんね。」と、買い物袋を持って2階へ上がってきた。

 「入院していてもつまらないし、1人で色々考えてもしょうがないじゃない。今、やりたい事をやる。これからは通勤入院します。」と明るく楽しそうに言っている。

 「えっ?なに?どーして?」と思う反面、すごいよ!!私が今まで信じようと思ってきたものは何だろう?全てが崩れ落ちていきました。自分自身が恥ずかしくおもえました。

 人を信用するには自分が信用されなくてはいけないし、よりよく生きるためには前向きで楽しんで日々を過ごし、考えても仕方が無い事に対しては今出来る事をやろうと思いました。

 生きる道を教えてもらったんだ。私もいつか「私はただの料理人です。」と言えるようになりたい。そのために私は負けない、絶対にあきらめない。ハネやん、心の料理を教えてくれてありがとう。
殺しても、死なない連中だなぁ!
「街」はこの10年・・・満身創痍だけど、絶対に負けません!


則子さんが大腸がんだ、と分かった。
検査通院、入院、手術・・・・。

普通に考えると、ものすごくダメージ、というところだ。
でも、今朝のミーティングは、「こんな事態だから、皆で力をあわせて、乗り切ろう!」
ということで一致。
皆が、“自分に何ができるか”考えた。

しっかり「街」を守ろう!
「大恐慌・大震災と闘う8月決戦」の上での、「街」の闘いにしていこう!!
という話が出るほどの「前向き」なミーティングとなった。

そう、みんなの団結した力があれば、これほど強いものは無い!のです!
それぞれが、自分の持ち場を“ひきうける”覚悟をした瞬間、則子さんが病気と闘う前向きな意味が出てくるわけで、これが一番の「お見舞い」になるはず。
久しぶりの仲間も来て、明日から出来ることを提案しあった。
「なかなか出て来れない仲間に、この事態を話して来るように声をかけよう」
「毎日の仕事を皆で割り振ろう」
「自分達が店を引き受けよう」

心強いです!団結です!たね。

No.

1047名解雇撤回!鉄建公団訴訟勝利!
8・3東京地裁抗議・街宣行動に全力結集しよう!

東京地裁民事11部・白石裁判長による結審策動を絶対に許さない!

 全ての組合員のみなさん!
 東京地裁民事11部・白石裁判長は、「動労千葉鉄建公団訴訟」について、次回8月3日の公判において、結審しようとしています。

歴史の真実にフタをしてはならない!

 この間、動労千葉は、1047名ー動労千葉争議団12名の解雇撤回に向けて、2004年12月に鉄建公団訴訟を提起して以降、中曽根元首相やJR総連革マル・松崎らが行ってきた国鉄分割・民営化=国家的不当労働行為の実態を明らかにするために全力をあげてきた。
 この中で、09年12月には、元国鉄職員局次長補佐であった伊藤証人の証言により、動労千葉12名を含めて本州で不採用になった100名以上の労働者が、実は当初、採用候補者名簿に搭載されていたこと、そして搭載されていた100名以上の労働者を名簿から排除したのが、JR東海の葛西会長であることが明らかになった。これは、分割・民営化以降、初めて明らかになった重大な事実であり、この一点だけとっても葛西の証人尋問は絶対に行われなければならない。
 しかし、東京地裁民事11部・白石裁判長は、前回(5月18日)公判において、葛西証人の証人採用は行わないこと、次回公判で結審する旨を公言するという絶対に許せない訴訟指揮を行ってきた。
 これは、国家的不当労働行為の実態が明らかになりかねないという状況の中で、事実にフタをし、国鉄闘争を解体しようとする国家権力・司法の反動攻撃に他ならない。
 動労千葉は、こうした反動攻撃に対して、東京地裁抗議闘争、そして鉄建公団訴訟への傍聴闘争を下記のとおり行う。
 全支部から全力で結集しよう!

8・3東京地裁抗議・街宣行動及び、動労千葉鉄建公団訴訟第26回公判について
◎ 東京地裁抗議街宣行動
 日  時  2011年8月3日(水)14時集合
 場  所  東京地裁正門前
◎ 動労千葉鉄建公団訴訟第26回公判
 日  時  2011年8月3日(水)16時から
 場  所  東京地裁・527号法廷

08年・09年不当家宅捜索国賠公判行われる
警視庁と令状発布裁判官の責任を徹底的に追及

 7月11日、13時10分から、東京地裁530号法廷において、「08年不当家宅捜索国賠訴訟」第13回公判が行われた。
 公判において警視庁側は、被告である川島及び池安の陳述書を提出してきた。
 しかしこの陳述書は、08年6月29日のサミット反対闘争での不当逮捕や、11・2労働者集会での不当逮捕について、どのような理由でDC会館に証拠物があるのかについては全く触れられていないなど、全く不当な内容だ。しかも、内容がないため、具体的内容は川島、池安の証言で立証するというものだ。しかし、動労千葉がデモ行進での停滞や公務執行妨害の指示を出していない以上、どのような証言・立証を行ったとしても、それはウソの証言にしかならないことは明白だ。

令状を発布した裁判官の責任は重大

 また、7月25日、13時15分からは、「09年不当家宅捜索国賠訴訟」第6回公判が行われた。
 公判では、捜索令状を発布した栃木簡易裁判所の石井清弘裁判官に対して、警察の申請書に添付された資料とは何か、どのように審査し、審査にかかった時間等について求釈明を行った。
 これは、警察が令状を請求すれば形だけの審査で令状がほとんど100%に近い形で発布されている状況の中で、裁判官が本当に審査して令状を発布しているのかを問い質し、そうでなければ不法行為にあたることを明確するためだ。
 不当弾圧粉砕へ闘おう!

当面するスケジュール
◆原発とめよう!8・15労働者市民の集い
 日  時  8月15日 (月) 13時から
 場  所  東京・中野ゼロ小ホール
 発  言 アメリカ「反戦の母」シンディー・シーハンさん
      韓国民主労総代表/動労千葉田中・委員長 他

◆第11期労働学校 第3回実践講座
 日  時  8月27日 (土) 13時から
 場  所  千葉市・DC会館 大会議室
 内  容  「関西生コン支部の闘いと労働運動再生の展望」
       講師 武 健一氏(関西生コン支部委員長)

大失業と戦争の時代に通用する新しい世代の動労千葉を創りあげよう!

 

8月1日(月)
 


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