日 誌 |
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東京北部ユニオン 「街」分会 ビデオ・ライブラリー 2011年 2010年・2009年・ 2008年・2007年 |
2011年日誌 |
スケジュール |
国鉄闘争全国運動のホームページ | |
http://www.doro-chiba.org/z-undou/z-index.htm | |
2日、則子さんの検査結果が出て、 進行性ガンであることが分かりました。検査・入院・手術の予定が決まっています。 「街」は、この結果を、「2011年後半は、大恐慌と3・11情勢がさらに進行し、かつて世界史が経験したことのない破局と動乱が爆発していく。そのただ中でこそ、まさにプロレタリア世界革命の現実性が躍動し、その勝利への準備がなされていく」という情勢の中でガッチリ受け止めます。8/19(金)手術に決定。 |
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お盆休みは16日~18日ですが、19日手術なので、今週いっぱい、通常営業はできないかも… |
8月19日(金) |
原発事故から5ヶ月 福島から 佐藤幸子さんの訴え① |
動労千葉を支援する会のホームページから転載 |
原発事故から5ヶ月 福島からの訴え 佐藤幸子さんの訴え② |
全学連ホームページ から転載 |
8月18日(木) |
「街」にカマキリ 明日、手術の則子さんのお見舞い |
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夕食は作ってる暇がないので、田無で寿司を買う。イワシ・魚の身が弱い。マグロもしまってない。 | ||
イクラの三食丼 | 三里塚の野菜 | |
飯田鮨さんから、マグロの差し入れ |
則子さんへ。 |
手紙が遅くなり、申し訳ありません。 この手紙を読んでいる頃は手術前か手術後か分かりませんが、僕なりの思いを手紙に託したいと思います。 僕はいま基地建設を止める為、沖縄労働運動を甦らせる為にとにかく毎日走り回っています。まだまだ未熟で、仲間達から毎日のように叱咤激励されていますが、生き生きとしています。 則子さんとはいつの間にか、16、17年ぐらいに付き合いになろうかと思います。僕を小学生の頃から知っている数少ない人です。でも本当に出会ったのは16歳の時だと思います。 あの時の僕は「生きる意味」が分からず、絶望し、精一杯もがいていました。 少し前に実家に帰った時に親父(剛)とその話になりました。初めてだったと思いますが、僕はその頃の気持ちを素直に親父に話しました。 「あの時の僕は生きるのをやめようと思っていた」と。 親父は悲しそうにうれしそうに、涙ぐみながら「そうだったなぁ」と酒を片手に言っていました。 16歳の時には親に伝えられなかった思いです。笑って伝えられたのは則子さんと共に闘った今までがあるからだと思っています。 親父やお袋も含め、その「今まで」の中にたくさんの人達がいます。たくさんの人達から僕は見えない手で支えられてきた。でも則子さんを抜きに僕の人生を語ることは出来ない。 今考えれば、16歳の僕の周りには絶望させるに十分足りるだけの社会的な状況がありました。しかし、同時に生きようと立ち上がらない僕自身の問題が大きくありました。 荒療治(笑)だと思いましたが、則子さんはその僕の両腕を抱え、立ち上がらせてくれた。羽やんも則子さんも僕に言ったことは「生きろ!」ということです。 則子さんは特に「自分らしさとは何かを見つけなさい」と何度も僕に怒鳴りましたね。僕はあの頃から「自分らしく生きる」ことを必死にもがくようになりました。 考えれば、僕が沖縄に行けたのも則子さんの『がん』と『闘病』のお陰です。 則子さんの『闘病』は大変だけど、「街」の仲間達と労働者階級との"団結"の中で病気との闘いが作られ、打勝ってきたと僕は思っています。 則子さんが闘病の中で労働者階級の大地に飛び込み、団結して闘う姿が今の僕の姿勢を作りました。 何よりも団結の力で「人は自分を変えられること」を則子さん自らが実践を持って教えてくれました。そして、革命は起こせることを。 僕自身、沖縄で闘う道は自分で選んだ道です。でも、そこには多くの苦難がありました。 基地建設阻止・実力闘争の継続を訴えた結果、「辺野古闘争排除」を辺野古一部指導部に強行されたこともその一つです。 3年前のあの頃は沖縄で僕への誹謗中傷が吹き荒れ、体制内指導部は権力とも結託し、あらゆる形で僕を叩き潰そうという状況が作られました。しかし、僕は折れない自信がありました。それは則子さんや街のみんなの存在が力強く僕の心にあったからです。 何よりすぐに則子さん・羽やんを先頭として「街」の仲間達が、僕への誹謗・中傷に対して「それがなんなんだい!!何があろうと晋君は闘う姿勢を微塵も変えちゃいない!!私達は晋君と断固共に闘う!!」と宣言してくれた。 どれだけあの時の僕の励みになったか。それから全国の仲間達の助けもあって、僕は退くことなく、今も意気軒昂と辺野古闘争を闘っています。 そして今、僕は1人の労働者として必死に闘っています。 僕の全人格・全存在を賭けて沖縄の労働者、世界の労働者階級と結びついて闘っています。闘病している則子さんも僕と同じく全存在を賭け、団結して闘っています。則子さんと僕の闘いは全く一体です。僕は則子さんと常に共に闘います。 則子さんが育てた青年達はいま労働者の指導部として、全労働者の未来を勝ち取る為に闘っています。 羽やんの闘病時には「革命の夜明けを一緒に見に行こう」と言いましたが、既に労働者自身の手で革命という事業を開始している時代です。 則子さん、もう少し、もう一歩ですね。 僕達は激動に次ぐ、激動の中で本当に大切な仲間を幾人か失いました。だから則子さんは手術して、長生きしましょう。これからですよ。革命が起きて、労働者の社会の主人公となる時代が来るのは。 「誰もが平等に生きられる社会作り」が『街』の理念の一つですよね。本当にこれから始まると思うと、楽しみじゃないですか。 僕は沙織や子供達、則子さん、羽やんや仲間達、おばぁ達、みんなで次の社会を作っていきたい。その為に僕は8月ヒロシマで「牧青を超える闘いをやる!!」と宣言しています。 沖縄に来て11年、僕はいま本当に自信を持って「自分らしく生きている」と言えます。 でも、賃金の鉄鎖を引き千切って、本当の解放と呼べる日が来るまで団結して闘わなきゃいけない。子供達の未来の為に。 則子さん、共に闘いましょう!! 共に生きましょう!! 共に11月集会に向けて頑張ろう!! 僕も頑張ります!! PS:子供達はすくすくと成長しています。元気な顔で11月に会いましょう。 沖縄 富田 晋より |
山本太郎、福島の子どもたちとともに内閣府、文科省、保安院の役人と対峙 「場当たり的なことはやめてください!」と声を荒げる yahooニュースより |
3・14法大弾圧を許さない法大生の会ブログから転載 |
17日、俳優の山本太郎が衆議院議員会館にて、子どもたちを放射能から守る福島ネットワークが主催の「子どもの声を政府に届けよう!」に参加した。 この日、永田町の議員会館には4人の小中学生たちが福島から自分たちの声を政府に届けるためにやってきた。「福島県民よりもお金が大切なんですか?」「福島の子どもたちは、プールにも入れません。マスクをして、登下校をしているのに、基準値を何十倍も引き上げて、どうして安全と言えるんですか?」「こんなことになった、原発がわたしは大嫌いです」まっすぐな意見が、子どもたちから向けられるなか横一列に並んだ内閣府、文科省、保安院の10名の"おとな"たちは、うつむくばかり。 6月に転校をしたという女の子は、「わたしは6月に転校をしてとても悲しい思いをしました。友達も泣いて別れを惜しんでくれました。こんなふうにバラバラになっていくのは、わたしたちにとって耐え難く悲しいことです。出て行った人も残った人もお互いのことが心配でたまりません。ですから、わたしたちが学校の友だちとみんなで安全な場所に避難できるよう、真剣に考えてください。そして、わたしたちが避難している間に、森も山も川も田畑も、福島県全域を徹底的にきれいにする計画を立てて、実行してください。わたしたちが将来安心して暮らせるよう、最大限の努力をしてください」としっかりとした口調で訴えた。だが、大人たちからの回答は「いまの皆さんの意見は持って帰ってできる限りのことをします。除染はしっかりとやっていくことを先週表明しました」「早く帰れるように、頑張ります」と集団疎開など具体的なことについてはまったくふれず、除染への"最大限の努力"を話すばかり。この態度に対し、山本が、「補償はどうするつもりなんですか? 除染したって、毎日毒が出続けているんだから住めるわけないでしょう。場当たり的なことはやめてください」と思わず声を荒げる場面もあった。 あいまいな、はぐらかすような回答ばかりが目立つ大人からの回答に失望感でいっぱいな子どもたちの様子に、「(今日のやりとりをみた)感想は残念の一言に尽きます。でも仕方がないと思うのは、おそらく決定権がない方々。だからおっしゃることは"持って帰って"ばかりです。持って帰ってもそこからは何も生まれないんでしょう。でも今日の子どもたちの話を聞いたことで、個人レベルでは、変えて行きたいと思ったはずです。皆さんかつては、こんなときに人々を救いたいという熱い思いでいまの仕事につかれたはず。だから、皆さんにお願いしたいのは、皆さんにも戦って欲しい。やっているふりはいりません。この子どもたちは、これから先の日本を支えていく子たちです。子どもたちのために勇気を出して戦ってください」と真剣な表情で訴えた。また、北海道から帰ったばかりの山本に、この日決定した北海道の泊原発に関して記者から質問が及ぶと、「もう原発は動かしちゃダメだと思う」と訴える福島の子どもたちとともに「いったい福島の事故でなにを学んだのか? なにも学んでいない!」と再稼働への怒りを伝えた。 この日は数か月前に山本が文科省の前で20ミリシーベルト問題を訴えたときに比べると、数えきれないほどの報道陣が駆けつけ、テレビ局、新聞各社が山本を取り囲んだ。ニコニコ動画での生放送は、2万人近くの人が見守った。事務所を辞め、福島の子どもたちのために立ち上がった山本の決意は、マスコミを動かした。「僕ら大人が子どもたちを守らなければいけない。子どもたちのために、勇気を出して戦ってください」という彼の想いは、日本中の大人たちの心にどのように伝わっていくのだろうか。(編集部・森田真帆) |
8月17日(水) |
8月16日(火)
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「たみとや」日誌から転載 | ||||||||||||
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8月16日(火) |
19日の手術の説明があったので、 病院に行ってきました。 |
癌(良性らしい)が腸をふさぎ気味なので、 入院以来、食事なしで、このドリンク剤のみ。 食いしん坊の則子さんにはつらい日々。 |
原発とめよう!世の中かえよう!8・15労働者・市民のつどい |
北島邦彦の「すぎなみ未来BOX」のブログから転載 |
今年の8・15集会には、イラク戦争で息子を喪った“反戦の母”シンディ・シーハンさんがアメリカからやって来てくれました。 「資本の利益のための戦争で自分の息子は殺された。そのアメリカ社会の仕組みはオバマ政権に代わっても何も変わっていない」と、シンディは「Peace Mam」から「Revolutionaly Mam」になりました。その“母”の想いと怒りは、特別報告をしてもらった「子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク」世話人・佐藤幸子さんにも共通しています。 シンディは広島-長崎-沖縄-東京と酷暑の日本をかけめぐり(その疲労で沖縄では体調を崩してダウンしたそうです)、戦争を止める力は労働者人民にあること、そしてそれは社会変革ぬきにはありえないことを訴え続けてくれました。Thank you,Shindy! |
8月15日(月) |
8・15靖国参拝阻止デモ |
本日、8・15靖国弾劾デモ!! | |
3・14法大弾圧を許さない法大生の会のブログから転載 | |
法大門前で集会開始! 間もなく法大門前から出発です! |
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警察権力もうじゃうじゃ来てます | 織田陽介君発言! |
8/15靖国弾劾デモ出発! | |
恒例行事「右翼の遠吠え」 | |
飯田橋前!! | |
最後に織田陽介君よりまとめと団結ガンバロー! | |
この後は中野zeroにて集会やります! |
倉岡さんより靖国弾劾デモ報告!
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「すべての原発をいますぐなくそう!全国会議」 事務局次長の富田祥子さん発言! |
全学連委員長代行・坂野陽平君の発言! | 「反戦の母」シンディ・シーハンさんの発言! |
坂野君より団結ガンバロー! | |
以下、「街」分会版 |
原発とめよう 世の中かえよう 8・15労働者・市民のつどい―国益と排外に憲法は屈するのか― 8月15日(月)正午開場 午後1時開会 なかのゼロ小ホール(中野区中野2-9-7 JRまたは東京メトロ東西線・中野駅南口から徒歩8分) |
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2日、則子さんの検査結果が出て、 進行性ガンであることが分かりました。検査・入院・手術の予定が決まっています。 「街」は、この結果を、「2011年後半は、大恐慌と3・11情勢がさらに進行し、かつて世界史が経験したことのない破局と動乱が爆発していく。そのただ中でこそ、まさにプロレタリア世界革命の現実性が躍動し、その勝利への準備がなされていく」という情勢の中でガッチリ受け止めます。 |
西川重則さん(平和遺族会全国連絡会 代表) |
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森川文人さん (弁護士) | ||
シンディ・シーハンさん 「ヒロシマ・ナガサキ、オキナワを語る」 | ||
松元ヒロさん、コント「ノーモア・ガンバレ ・ニッポン」 |
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福島からの訴え・佐藤幸子さん(子ども たちを放射能から守る福島ネットワーク 世話人 福島子どものいのちを守る会 代表) |
韓国・民主労総 | |
田中康宏・動労千葉委員長 | ||
絶対にすべての原発を廃止にしよう!
固く決意する一日となりました。もちろん、これまでも“固く”思ってはいたのですが、「フクシマからの」佐藤さんの発言、アメリカから共に闘うためにきているシンディーシーハンさんの発言、韓国民主労総ソウル本部からの2人の発言、国鉄闘争と一つになって、世界中の労働者とつながって、なんとしてでもこの社会を変えなければ!!と、思います。
資本主義がもう、ボロボロになっています。今がチャンスです!!
革命しましょう!!!
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